その16
ホントにウソな話だが、
わたしには毎朝出勤で通りかかる交差点がある。
その日は、車で信号に捕まり、窓から、ふと交差点角の電柱を見るとそこにスイッチ式信号機のボタンが設置されていた。
そのボックスの上になにやら本?のようなものがあった。
いや、本じゃない。多分手帳だ、とわたしは思った。多分というのは、なにしろ車内からのなのではっきり見えなかったからだ。
車を降りてまで得体の知れない手帳を確認するほど暇ではない。こちらは出勤の途中なのだ。
その後も、同じ交差点で止まるたびに、その手帳が眼に入った。
数か月経っても、その手帳はその場所に在り続けた。ある日、わたしは気まぐれになぜか車から降り、その手帳を手にとってみることにした。
パラパラとページをめくってわたしは「うわっ」と声を上げてしまった。
なんとそれはとあるタクシー運転手のものであり、後半のページには遺書のようなものが綴られていたからだ。
そこには家族に対する謝罪の言葉らしきものが記されていた。先に死にゆき自分の身勝手さを詫びる文章だ。
気持ちの悪いものを見てしまったとわたしは、すぐにそれを元の場所に戻した。
そのまま自分の気まぐれに後悔しながら会社へ向かった。
その帰り道のことだ。同じ交差点に通りかかると、なんとあの手帳がない。何か月もそこにあったものが、わたしがそれを手に取った今日に限ってなくなるとは。
どこか不気味な胸騒ぎを覚えながら、わたしは帰路についた。
そして家でテレビを見ていると、ニュースで海中から死体があがったと報じられていた。
なんとなしに聞き流していたのだが、そこで報じられた名前に慄然とすることになる。それはあの手帳の持ち主の名前だったのだ。
わたしが手帳を手にとった日に持ち主の死体があがるとは偶然とは思えないが、そこに何の意味があるのかもわからない。
誰かの死にゆく想いを知ってほしいと故人が願ったのだろうか。恐ろしさよりも何とも言えない切なさを感じる体験だった。